幸せだった時間(2)





 長い冬の夜が明けて、一日の始まりを告げる小鳥の囀りでセレーナは眼を覚ました。
 いつもなら誰よりも早く起きて庭に出て小鳥に餌をやるのが彼女の日課なのだが、今日は少し寝坊してしまったらしい。
(おかしいわ。普通ならもっと早く起きるのに・・・。)
 のろのろと上半身を起こして辺りを見回すと彼女は一瞬で頭が冴えてしまった。
 寝ていた場所は自分のベッドではなかったのだ。
 否、自分の部屋でもなかった。
 セレーナは昨日自分に何があったか思い出そうとした。


 私は今どこにいるの?
 私はなぜここにいるの?
 私は誰かに誘拐されたの?
 だったら私はどうなるの?


 途中から彼女の頭の中はパニック状態になっていた。
 さらに次の瞬間、ドアのノブを回すガチャッという音にセレーナは心臓が止まりそうになった。
 ゆっくりとドアが開き、銀髪の青年が入ってきた。
「やあ、おはようセレーナ。よく眠れたようだね。」
 青年――――クジャはにこりとしながら言った。
「す、すみませんクジャさん!」
 セレーナはようやく昨晩の事を全て思い出し慌ててベッドから下りた。
「私・・・こんなつもりは・・・えっと・・・すぐに帰りますからっ!!」
 そのまま逃げるように帰ろうとしたがクジャが彼女の手を掴んで引き止めた。
「そう慌てなくていいよ。それよりお腹が空いただろう? 朝食の用意がしてあるからよかったらどうだい?」
「えっ!? で、でも・・・。」
「遠慮しないで。」
 セレーナは半ば強引にクジャに朝食を勧められ、帰るに帰れなくなってしまった。


 彼女が広間にあるテーブルに着席するとすぐにクジャが自らスープを運んできた。
 意外な事に彼は料理ができるのである。
 独り暮らしの上に、召使いも雇わないのだから仕方がないのだが。


「さ、温かいうちにどうぞ召し上がりたまえ。」
 クジャはテーブルに温かいポタージュスープを並べた。
 だが、セレーナはとてもそれを味わう気分にはなれなかった。
 昨日自殺しようとした人間に食欲がある方がおかしいかもしれないが。
「あの・・・すみません。私、とても食べる気には・・・。」
「まあそう言わずに。一口でいいから。」
 それでも躊躇っていたがようやく一口だけスープを飲んだ。
「お口に合うかな?」
「・・・おいしいです。こんなにおいしくて温かいスープは今まで飲んだ事がないです・・・。」
 セレーナは無言のままスープを味わっていたが、やがてポロポロと涙を零し始めた。
「おや?」
「・・・ごめんなさい・・・。私、なんで・・・なんで死のうだなんてバカな事考えたのか・・・。」
 セレーナはそのまましばらく泣き咽んだ。
 昨夜、自分が死ぬことに対して何の恐怖も無かった。
 しかし、今はそれがたまらなく恐ろしく、そして怖かった。
 他人にとっては何の変哲もないスープが、彼女にとっては心の中に温かく染み渡り、生きる希望を与えたのだった。


 そして――――
 ようやく落ち着いたセレーナにクジャは言った。
「キミには今の生活は似合わない。」
「えっ?」
 クジャの突然の言葉にセレーナはきょとんとした。
「キミのような女性がグルーナーのような奴に縛られることはない。」
「でも・・・私にはどうしようも・・・。」
 下級貴族の娘であるセレーナに現状の問題を解決できるはずがなかったのである。
 しかし、クジャは笑いながらセレーナの肩をポンッと叩いた。
「僕が協力するよ。」


 しばらくして、クジャはルーク家を訪ねていた。
 当主のグルーナーは広間で彼を迎えた。
 そして、形式的な挨拶が済むとグルーナーから話を切り出した。
「ところでクジャ殿、今日おいでになられたのは商売がらみの事かね?」
「いえ、今日は個人的な用でまかり越したのです。」
「ほう、ではその個人的な用とは?」
「閣下はセレーナという女性を当然ご存知ですよね?」
 グルーナーはその名前を聞くと少々眉をひそめた。
「・・・まあ知らないわけではないが・・・。しかし、それがどうかしたのかね?」
「私はその女性と結婚を前提にしたお付き合いを考えております。」
「!!」
 驚きのあまりグルーナーは、思わず椅子から立ち上がりかけた。
「・・・いや失礼。しかし、それをなぜ私に言う必要があるのだ?」
「お恥ずかしい話ですが、少し前の宴で初めて会った時に私は彼女を見初めてしまい、それ以後、姿を見かけるたびに私の心の中で彼女の存在がみるみる膨らんでいったのです。」
 グルーナーは黙ってそれを聞いていた。
「そして昨日、彼女におもいきって私の思いの丈をぶつけてみました。しかしながら、彼女は丁重に断ってきましたよ。理由を訊きましたら閣下に借金があり、それを返済するまでは誰とも結婚できないと言ったのです。」
 そう言うと、クジャは手に持っていた鞄を開けた。
「しかしながら、そのくらいで私は彼女を諦めたくはありません。ですからここに閣下に返すはずのお金を持参いたしました。」
 グルーナーは鞄の中身を見て驚嘆の声を上げた。
 中には宝石がびっしりと入っていたのである。
 100万ギルどころかその倍の価値は優にあるだろう。
「これで彼女を私に譲ってくださいませんか?」
「いや、しかしこれは・・・。」
 グルーナーは言いよどんだ。
 まさかセレーナに味方する者がいるとは思いもしなかったのだ。
 しかも、それが今ではキング家に多大な影響力を持つクジャだとは・・・。
「何か不都合でも?」
「と、とんでもない、私としては金を返してもらえればそれで良いのだよ。」
 グルーナーにとってセレーナを手に入れられないのが残念だったが、クジャ一人のためにキング家までを敵に回したくはなかったし、ただで多額の金が手に入るため今回は大人しく手を引くことにした。
 もっとも、彼女を諦めたわけではなく、頭の中では次の手段を考えているのだが。


 だが、そこでクジャはグルーナーが予想もしなかった事を言った。
「さすがは由緒あるルーク家の御当主、それを聞いて安心しました。ですがその前に、借用書を見せていただけませんかね。」
「!?」
「失礼ですが、借用書がなければ閣下は借金を取り立てることができないのと同様に、私としてもお金を返済する事はできないのですよ。」
「そ・・・それがだね・・・。」
 グルーナーの額には脂汗が滲み出ていた。
 実はこの時、彼はまさか金を返しに来るとは夢にも思わなかったため、偽造した借用書を用済みと考えすでに捨てていたのだった。
「まさか、無くされたと言うのではないでしょうねえ?」
「そ、そのような事などない。すぐに取ってこよう。」
 グルーナーは早足で部屋から出て行った。
(やっぱり偽造したものだったようだね。)
 グルーナーの慌て様を見てクジャはそう思った。
 もし出されたら出されたで何らかの言いがかりをつける気だったのだが。


 しばらくして、グルーナーはようやく戻ってきた。
「・・・クジャ殿、どうしたことか借用書が見つからんのだよ。失礼だが日を改めて――――」
 それを聞いたクジャはニヤリとした。
「おや? 見つからないとは解せませんね。あれだけの大金を貸しておきながらそれを証明される物を無くされるとは・・・。」
「ぶ、無礼な、無くしてなどおらん! 見つからぬだけで――――」
「言い訳はもう結構ですよ、閣下。」
 クジャはグルーナーの発言を制すると鞄を閉じて立ち上がった。
「この事はキング様にお伝えします。覚悟はしておいてください。」
「ま、待ちたまえ、それだけは――――」
 キングに弱みを握られては何かと厄介な事になるためそれだけは避けたかったのだった。
「ルーク家当主ともあろうお方が見苦しいですよ。では失礼します。」
 クジャは冷たく言い放つとそのままグルーナーに一瞥もくれずに立ち去った。
 後に残されたのは呆然としたまま部屋に立ち尽くすルーク家当主の姿だった。


 クジャが自宅に戻るとセレーナはすぐに駆け寄ってきた。
 不安を抑えきれずに今まで部屋の中を歩き回っていたようだった。
「あの・・・お金の方は・・・?」
 セレーナは不安そうに訊いた。
「もう心配いらない。キミは自由の身だよ。グルーナーももう何もしてこれないと思う。」
「あ、ありがとうございました!」
 セレーナは瞳を潤ませながら深々と頭を下げた。
「何とお礼を言ったらいいか・・・このお返しは近いうちにきっと必ず・・・。」
「気を使わなくていいよ。僕が勝手にした事なんだから。」
「でも、それでは私の気持ちが・・・。」
 クジャはしばらく逡巡した末、
「じゃあ、一つ頼まれてくれないかい?」
「はい、私にできることなら何でも!!」
 セレーナの喜ぶ顔を見てクジャはその頼み事の内容を話した。
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