幸せだった時間(1)
1796年 10月
「明日の幸せを願って人は眠る・・・・・・。昨日の不幸をすべて忘れてしまうために・・・・・・。そして喜びに満ちた夢を見ることを願う・・・・・・。そう・・・・・・つらく苦しい現実を忘れてしまいたいから。(中略)喜びの酒が、つらく悲しかった過去を洗い流し、バラ色の未来をもたらしてくれると信じてる・・・・・・。」(ある男の独白)
ここは人々の野望と欲望が渦巻く街トレノ。
貴族の屋敷が立ち並び一見華やかに見えるが、その反面、雑居区には貧しい人々が多く住んでおり、貧富の差が大陸一激しい街なのである。
また、スリはもちろん、夜になれば傷害、強姦、時には殺人といった犯罪が横行するといった大陸でも一、二を争う危険な街でもある。
だが、それにも拘わらずこの街から出て行こうとする者はめったにいない。
貧しい者はいつか貴族になるという野望を、裕福な者はさらに巨万の富を得ようという欲望を常に膨らませているからである。
この街ではチャンスさえ物にすればどんな貧乏人でも成り上がることができる。
しかし、どんな裕福な貴族でも選択を誤れば一気に没落していくのだ。
だが、ここキング家には関係のない話だった。
昔から裕福だった上に戦時中は武器を三国に売り、戦後はオークションを開くなどして確実に財産を増大させていったのである。
さらに、ここ数年は今までの倍以上の年収を得ていた。
そのきっかけはクジャという武器商人がこの家にやってきてからであった。
クジャは物珍しい品々を何処からか持ち込み、それをオークションに出品することで得た収入の ほとんどをキング家のものとしていったのである。
だが、その代わりいずれアレクサンドリアの女王ブラネに自分を紹介してほしいというのがキングに協力する条件であったが。
そして――――
「まったく・・・もてる男はつらいよ。」
クジャはほろ酔い気分でキング家へと歩いていた。
この日の夜、彼はキングの名代としてビショップ家で催された宴に出席したのである。
(無論、服装はパーティー専用のタキシードだ。)
最近はキング本人よりもクジャが出席した方が貴族たちに歓迎される。
なぜならクジャが若い上に容姿が美しく、さらに女性に礼儀正しいため人気があるからなのだ。
今夜も幾人もの女性が彼に言い寄って来る度に、
『キミはこの薄暗いトレノで僕を暖かく照らしてくれるお日様のようだ。』
『貴女のその笑顔はどんなに磨き上げられた宝石より光り輝いているよ。』
というような他愛もない言葉でメロメロにしてきたのだ。
だが、彼にしてみれば何かが虚しかった。
ジェノムとはいえ、クジャも男性のため女性に囲まれるというのは決して悪くはなかった。
だが、テラの事しか頭に無いジェノムと、金と権力の事しか頭に無い貴族。
どちらも代わり映えの無い同じような奴らばかり。
クジャは溜め息を一つついた。
(まあいいさ。所詮奴らは定められた流れの中にいるだけに過ぎないのさ。だが僕は・・・。)
そう考えながら雑居区に差し掛かった時だった。
一人の少女が祈るように両手を組んで水面を哀しげに眺めているのが見えた。
その顔には見覚えがあった。
以前何度かキング家の宴に来た事があり、自分とも面識のある下級貴族の娘だった。
(確か名前はセレーナだったかな? こんな時間に何を・・・?)
ふと彼女の足元を見ると、裸足でその傍には履物が揃えてあったのが見えた。
(まさか!)
クジャはセレーナが何をしようとしているのかを察した。
彼女は身を投げようとしていたのだった。
(お父様・・・お母様・・・今すぐ私もそちらへ――――)
そしてセレーナは水路へと身を投げかけた。
しかし、そこで誰かに後ろから抱きとめられた。
「早まるな、愚かな真似はよしたまえ!」
クジャはセレーナを必死に思いとどまらせようとした。
「!! 離してください! このまま死なせてください!!」
セレーナはクジャの手を振り解こうとバタバタと暴れた。
「とにかく落ち着くんだ。死ぬのはいつでもできる!」
「ほっといて!!」
セレーナはドンッとクジャの体を突き放した。
すると、
「う・・・うわあぁぁぁーーーーー!!」
勢いが強すぎたのかクジャは叫び声と共に反対側の水路へ落下してしまった。
しばらくして、キング家の敷地内にあるクジャ邸にて―――――
「すみませんクジャさん・・・私のせいでご迷惑をおかけして・・・。」
セレーナは申し訳なさそうに俯いていた。
「フフフ、別にいいよセレーナ。レディを助けるための名誉の負傷なんて我ながらかっこいいからね。」
クジャは辛うじて水路から這い上がり彼女を説得しここに連れてきたのである。
「でも、キミみたいな美しい人がどうして自殺なんて・・・失礼かもしれないけど聞かせてくれないか
な?」
セレーナはしばらく黙したままだったが、やがて意を決したのか理由を話し始めた。
彼女の家は古くからの名家ではあるが使用人も居らず、それほど裕福というわけではない。
だが、貧しいというほどでもなくトレノにおいては珍しい庶民並みの生活を送っていたのだ。
そのような生活でもセレーナ本人にとっては楽しいものだった。
しかし、一月前に両親が事故で死んでしまってから彼女の人生は狂い始めた。
葬儀が済んだその日のうちにトレノの有力貴族であるルーク家の当主、グルーナーがこの家に100万ギルを貸したから返してほしいと言ってきたのだった。
セレーナはそのような覚えなどないと否定した。
実際そんな借金などなかったのだが、グルーナーは前々からセレーナとこの家を狙っており話をでっち上げたのである。
そして、動かぬ証拠として借用書(もちろん偽造だ)を突きつけたのだ。
彼女には信じられなかったがどうしようもなかった。
さらに、グルーナーは借金を返せなければこの家を貰うと言ってきたのだ。
しかし、この家の微々たる貯えでとても返せる額ではなく、セレーナは悩み苦しんだ。
そして思い余った彼女は先程自殺を図ったのである。
「私・・・もう・・・どうしたらっ・・・どうしたらいいか・・・。」
話の途中からセレーナはしゃくりあげていた。
苦しい胸の内を全て打ち明けた事で感情がどっと溢れてきたのだった。
クジャはセレーナに歩み寄り、そっと涙を拭ってやった。
「苦しかったんだね・・・。」
その言葉に彼女はクジャにしがみ付き泣きじゃくった。
クジャは少々喫驚したが、自然にセレーナの痩躯を抱きしめた。
彼女は何の抵抗もせず彼の腕の中でしばらく泣き続けた。
そのうち、セレーナは泣き疲れたのかクジャに抱きしめられたまま眠ってしまった。
クジャは彼女をそっと抱きかかえ、自分の寝室に運びベッドに寝かせた。
そして再び居間に戻るとじっと考え込んだ。
(彼女は僕と同じなのかもしれない・・・。弱者が何もできずに支配されるという苦しみを知っている・・・。)
なぜセレーナを抱きしめたのかクジャ自身よく分からなかった。
ただ、彼女に対して何かを感じたのは確かであった。
それは一般的に言う同情、もしくは共感というものかもしれない。
彼にはセレーナの苦しみが理解できたのだった。
自分もそうなのだ。
ガーランドによって創り出されてから何の自由も与えられずに様々な訓練を受けさせられ、この世界に戦乱をもたらすという使命を帯びてこの世界に送り込まれた。
だが、クジャにとって戦乱などどうでもよかった。
クジャの頭の中にはガーランドに対する怒りと憎しみしかなかった。
自分という存在がありながらガーランドは自分よりもさらに優秀なジェノムを創り出し後継者にしようとしたのだ。
その存在が許せなかったクジャはそのジェノムをこの世界に捨てた。
そして、戦乱を起こすために動いているように見せかけて実際はガーランドを葬り去るに必要な強大な力を探していたのだった。
そして、1790年にガーランドの命令である村を滅ぼした後、その強大な力の存在を知り、500年前のアレクサンドリアでの出来事に行き着き、女王ブラネに取り入るため、まずトレノの有力貴族であるキングと接触して現在に至るのである。
(よし・・・。)
クジャはある決心をした。